不確実性の高い新規事業における価格設定戦略:顧客価値起点のアプローチと実践ツール
不確実性の高い新規事業における価格設定戦略:顧客価値起点のアプローチと実践ツール
新規事業の立ち上げにおいて、製品やサービスの価格設定は避けて通れない重要な意思決定プロセスです。特に、まだ市場が確立されていなかったり、顧客のニーズが不明瞭であったりする不確実性の高い環境下では、その難易度は一層増します。コスト積み上げ方式では市場に受け入れられるか分からず、競合が存在しない場合はベンチマークもできません。このような状況で、どのように適正な価格を見出し、事業の収益性を確保しつつ、顧客に価値を届け、さらには経営層への説明責任を果たすことができるのでしょうか。
本稿では、不確実性の高い新規事業環境における価格設定に焦点を当て、特に「顧客価値起点」のアプローチの重要性とその実践に役立つツールやフレームワークを解説します。長年のビジネス経験をお持ちの新規事業企画担当者の皆様が、新たな市場や顧客層に対し、説得力のある価格戦略を構築するための一助となれば幸いです。
なぜ新規事業では「顧客価値起点」の価格設定が重要なのか
伝統的な価格設定アプローチには、主に以下の3つがあります。
- コストプラス価格設定: 製造原価やサービス提供コストに一定のマージンを加えて価格を決定する方法。計算が容易ですが、市場や顧客の受け入れ態勢を考慮しないため、新規事業では市場価格との乖離や収益機会の損失につながる可能性があります。
- 競争ベース価格設定: 競合他社の価格をベンチマークに価格を決定する方法。競合が存在しない、あるいは競合とは異なる価値を提供する新規事業には適用が難しいアプローチです。
- 価値ベース価格設定: 顧客が製品やサービスに感じる価値を基準に価格を決定する方法。新規事業、特に革新的な製品やサービスを提供する場合は、既存市場の価格水準やコスト構造が参考にならないことが多いため、顧客がその価値に対してどれだけ対価を支払う意思があるのか、という視点が極めて重要になります。
新規事業においては、これまでの事業では当たり前だったコスト構造や市場価格が通用しないことが少なくありません。むしろ、新しいテクノロジーやビジネスモデルによって、既存の価値基準を覆す可能性を秘めています。だからこそ、提供する製品・サービスが顧客にどのような「価値」をもたらすのかを深く理解し、その価値を価格に反映させる「顧客価値起点」のアプローチが戦略立案の要となります。このアプローチは、単に価格を決めるだけでなく、提供価値そのものを明確化し、ターゲティングやプロモーション戦略とも一貫性を持たせる上で強力な指針となります。
顧客価値起点の価格設定に役立つ実践ツール
顧客が感じる価値は、単純な機能や性能だけでなく、使いやすさ、ブランドイメージ、顧客が得られる経済的便益(コスト削減、収益増加など)など、多様な要素によって構成されます。これらの要素を理解し、価格設定に結びつけるために、以下のようなツールやフレームワークが有効です。
1. EVC (Economic Value to Customer) 分析
EVCは「顧客にとっての経済的価値」を定量的に算出しようとする考え方です。特にB2B領域や、顧客が何らかの経済的便益(コスト削減、生産性向上、リスク低減など)を期待して製品・サービスを導入する場合に強力なツールとなります。
基本的な考え方は、顧客が現在利用している代替手段(Do Nothingを含む)と比較して、提供する製品・サービスが顧客にもたらす経済的便益の総和を計算することです。
算出の例: 「既存の設備メンテナンスサービス」を「自社のIoT活用予知保全サービス」に置き換える新規事業を考える場合。
- 顧客が現在負担しているコスト(代替手段の総コスト):
- 突発故障による生産ライン停止損失(年間○○円)
- 定期メンテナンス費用(年間○○円)
- 部品交換費用(年間○○円)
- メンテナンス担当者の工数(年間○○円)
- 自社サービス導入後に削減できるコストまたは得られる収益:
- 生産ライン停止損失の大幅な削減(年間△△円削減)
- 定期メンテナンスから予知保全への移行による費用削減(年間△△円削減)
- 部品交換サイクルの最適化による費用削減(年間△△円削減)
- メンテナンス工数の削減(年間△△円削減)
- (もしあれば)新規サービスによって可能になる追加の収益機会(年間△△円増加)
EVC = (代替手段の総コストまたは収益)-(自社サービス導入後の顧客コストまたは機会費用)+(自社サービスによる追加便益)
このEVCは、顧客が最大限支払っても合理的であると判断できる価格の上限を示唆します。実際の価格は、このEVCを参考に、自社のコスト、目標利益、競合(代替手段)の価格、そして顧客がEVCのすべてを認識・評価できるわけではないという現実を踏まえて設定します。
ターゲット読者の視点: 製造業の現場や顧客企業でのコスト構造、生産プロセスに深い知見を持つ皆様にとって、このEVCの考え方は非常に馴染みやすく、具体的な数字に基づいた価格設定の根拠として活用しやすいでしょう。新規事業の提案時に、このEVCを試算して提示することで、顧客にとっても経営層にとっても、価格の妥当性や投資対効果を理解してもらいやすくなります。
2. PSM (Price Sensitivity Meter) 分析
PSMは、W. van Westendorp氏によって開発された価格受容性測定手法です。顧客へのアンケートを通じて、「高すぎて買わない価格」「安すぎて品質に不安を感じる価格」「高いが品質が確かなら買う価格」「安いがこれなら買ってもよい価格」の4つの質問への回答を収集・分析し、市場全体が許容できる価格帯を特定します。
アンケート結果をグラフ化し、4つの曲線が交わる点から、最適な価格帯(Optimal Price Point: OPP)、妥協価格(Indifference Price Point: IPP)、高すぎる価格の限界(Point of Marginal Expensiveness: PME)、安すぎる価格の限界(Point of Marginal Cheapness: PMC)などを導き出します。
分析から得られる示唆:
- 受け入れられやすい価格帯: IPPとOPPの間など、多くの顧客が「妥当」と感じる価格帯。
- 価格の上限・下限: PMEやPMCは、それぞれ「高すぎて買わない」「安すぎて品質に不安」と感じる境界線を示唆します。
- 顧客セグメントによる価格感度の違い: 必要に応じてセグメント別に分析することで、顧客層ごとの価格に対する反応の違いを把握できます。
ターゲット読者の視点: まったく新しい顧客層や、既存事業とは異なるチャネルで製品・サービスを展開する場合、顧客の価格感度は未知数です。PSMは比較的簡単に実施できる定量調査に基づいているため、客観的なデータとして顧客の価格受容性を測るのに有効です。特に、コンシューマー向けに近いサービスや、多くの顧客の声を集めたい場合に適しています。経営層へ説明する際にも、「顧客調査の結果、この価格帯が最も受け入れられやすいことが示されました」といったデータに基づいた報告が可能になります。
3. コンジョイント分析(補足)
コンジョイント分析は、製品やサービスの異なる属性(例:機能A、デザインB、価格C)の組み合わせに対する顧客の評価を分析し、各属性が全体評価にどれだけ貢献しているか(重要度)、また属性のレベル(例:価格レベル1、レベル2、レベル3)に対する顧客の選好度(効用値)を測定する統計的手法です。
価格設定への活用: コンジョイント分析によって、価格という属性が顧客の購買意思決定において他の属性と比べてどの程度重要視されているか、また価格レベルごとに顧客の選好度がどのように変化するかが明らかになります。これにより、「顧客は価格よりもむしろ特定の機能を重視している」「この機能があれば、より高い価格でも受け入れられる」といった洞察が得られ、価格設定の根拠として、提供価値と価格のバランスをより精緻に検討することができます。
ターゲット読者の視点: やや高度な分析手法ですが、製品・サービスの構成要素が多く、どの要素が価格に対する顧客の評価に大きく影響するかを詳細に把握したい場合に有効です。技術的な製品を扱う製造業においては、技術仕様や性能といった属性が価格受容性にどう影響するかを分析する際に役立つ可能性があります。
応用・活用事例
これらのツールは、単体で利用するだけでなく、組み合わせて活用することでより深い洞察を得られます。
- EVCとPSMの連携: EVCで顧客が享受する経済的価値に基づく理論上の価格上限を算出し、PSMで実際の市場が受け入れる価格帯を把握します。これにより、提供価値に見合った価格であるか、あるいは価格設定が顧客の認識や許容範囲と乖離していないかを確認できます。もし乖離が大きい場合は、提供価値の伝え方(プロモーション)や、顧客が価値を認識しやすいプロダクト設計に改善の余地があることを示唆します。
- 新規事業における価格段階の設定: PSM分析で得られた価格帯や、EVC分析で特定された顧客セグメントごとの価値認識の違いに基づき、複数の価格プラン(例:基本プラン、プレミアムプラン)を設定する際の参考とします。
- 経営層への説明資料への活用:
- EVCの試算結果は、新規事業の価格が顧客にとっての投資対効果に見合うものであることを論理的に説明する強力な根拠となります。「このサービス価格は年間○○円ですが、顧客企業には年間△△円のコスト削減効果をもたらすため、高い投資対効果が期待できます」といった形で提示します。
- PSM分析の結果は、顧客調査に基づいた客観的なデータとして、設定した価格帯が市場からどのように受け止められるかの蓋然性を示すのに役立ちます。「○○%の潜在顧客が、提示価格帯を『妥当』または『安い』と感じると回答しています」といった報告が可能です。
- コンジョイント分析結果は、特定の機能や性能に対する顧客の価格感度を示すことで、プロダクト戦略と価格戦略の連動性を説明する際に有効です。「顧客調査の結果、機能Aの搭載が価格受容性を○○%向上させることが分かりました」といった説明が考えられます。
新規事業の企画段階からこれらの分析を取り入れることで、事業計画における収益予測の精度を高め、経営層からの承認を得やすくなります。
注意点・成功のポイント
顧客価値起点のアプローチとツール活用にあたっては、以下の点に注意が必要です。
- 「価値」の定義の難しさ: 顧客が感じる価値は必ずしも定量化できるものだけではありません。ブランドイメージや情緒的な価値、使いやすさなども価格受容性に影響します。EVCは経済的価値に焦点を当てますが、それ以外の要素も考慮に入れる必要があります。
- 顧客調査の限界: PSMやコンジョイント分析は顧客調査に基づきますが、潜在顧客は実際に購入する状況とは異なる環境で回答する可能性があります。また、質問の設計や対象者の選定によって結果が大きく左右されるため、設計には慎重さが求められます。特に、存在しない製品・サービスについて「いくらなら買いますか?」と尋ねても、信頼できる回答が得にくい場合が多いです。
- 不確実性への対応: 新規事業では、顧客の反応や競合の出現など、計画通りに進まない要素が多く存在します。価格設定も、一度決めたら終わりではなく、市場投入後の顧客の反応やデータ(購買率、解約率など)を見ながら、継続的に見直していく柔軟性が不可欠です。MVP(Minimum Viable Product)での価格検証も有効なアプローチです。
- 他の要素との連携: 価格設定は、プロダクトの機能・品質、販売チャネル、プロモーション戦略といった他のマーケティングミックス要素(4P)と密接に関連しています。これらの要素との整合性を保ちながら価格戦略を構築することが成功の鍵となります。例えば、高価格帯で提供するのであれば、高品質なプロダクト、限定的な販売チャネル、プレミアム感を打ち出すプロモーションが必要になるでしょう。
結論
不確実性の高い新規事業環境における価格設定は、事業の成否を左右する極めて重要な要素です。コストや競合だけを基準にするのではなく、顧客が提供される製品・サービスにどのような「価値」を見出すのかを深く掘り下げ、それを価格に反映させる「顧客価値起点」のアプローチが有効な戦略立案の指針となります。
本稿で紹介したEVC、PSM、コンジョイント分析といったツールは、顧客の価値認識や価格受容性を客観的・定量的に捉え、戦略的な価格設定を行う上で実践的な助けとなります。これらの分析から得られたデータや洞察は、社内外の関係者、特に経営層に対して、なぜその価格なのか、事業の収益性はどう担保されるのか、といった点を論理的かつ説得力をもって説明するための強力な材料となるでしょう。
これらのツールやフレームワークを単なる分析手法としてではなく、顧客理解を深め、提供価値を磨き上げ、そして事業計画の蓋然性を高めるための実践的な手段として活用し、貴社の新規事業を成功に導く一歩としていただければ幸いです。まずは、自社の新規事業において、顧客がどのような経済的・非経済的価値を得られるのかを改めて問い直し、本稿で触れたいずれかのツールを試してみることから始めてみてはいかがでしょうか。