戦略立案実践ガイド

顧客が製品・サービスを「雇う」理由 ジョブ・トゥ・ビー・ダン(JTBD)フレームワーク 新規事業での深層顧客理解と価値創造

Tags: 戦略立案, 新規事業, JTBD, 顧客理解, フレームワーク, 価値提案

新規事業における顧客理解の深化:なぜ顧客は製品を「雇う」のか

新規事業を成功に導くためには、顧客を深く理解することが不可欠です。しかし、従来の顧客分析手法であるデモグラフィック情報(年齢、性別など)やサイコグラフィック情報(趣味、価値観など)だけでは、顧客がなぜ特定の製品やサービスを選択し、使い続けるのかという本質的な動機を見誤ることが少なくありません。特に、既存市場とは異なる新しい顧客層をターゲットとする新規事業においては、表面的な情報だけでは不確実性が高まります。

顧客の行動を本当に理解し、彼らにとって真に価値のある製品やサービスを生み出すためには、「顧客が何を成し遂げたいのか」という根本的な問いに深く向き合う必要があります。ここで強力なツールとなるのが、「ジョブ・トゥ・ビー・ダン」(Job to be Done、以下JTBD)フレームワークです。JTBDは、顧客が特定の製品やサービスを「雇う」のは、彼らが抱える特定の「仕事」(Job)を片付けるためである、という考え方に基づいています。本記事では、JTBDフレームワークの概要から、特に不確実性の高い新規事業環境における実践的な活用方法、そして経営層への説明に役立てる視点までを解説します。

ジョブ・トゥ・ビー・ダン(JTBD)フレームワークとは

JTBDフレームワークは、顧客が製品やサービスを購入・利用する根本的な理由に焦点を当てるアプローチです。イノベーションの研究者であるクレイトン・クリステンセン氏らが提唱した概念として知られています。この考え方では、顧客は単に製品の機能やブランドに惹かれるのではなく、「ある状況下で、特定のタスクを遂行したり、特定の目標を達成したりするために」、その製品やサービスを「雇用(Hire)」していると捉えます。

例えば、あなたがドリルを購入するとします。本当に欲しいのはドリル本体でしょうか。おそらくそうではありません。あなたが本当に「雇っている」のは、壁に穴を開けるという「仕事」を片付ける能力を持つソリューションとしてのドリルです。もし、もっと簡単に、あるいはもっときれいに穴を開けられる別の方法があれば、顧客はそちらを「雇用」するかもしれません。

JTBDにおける「仕事」(Job)は、機能的な側面に加えて、感情的、社会的な側面も含まれます。 * 機能的な仕事(Functional Job): 特定のタスクを完了させる、問題を解決するなど、実用的な目的。「書類を整理する」「移動する」「データ分析を行う」など。 * 感情的な仕事(Emotional Job): 特定の感情を得る、あるいは不快な感情を避けること。「安心したい」「楽しみたい」「不安を解消したい」など。 * 社会的な仕事(Social Job): 他者からどのように見られたいか、特定の社会的な役割を果たしたいかに関わる目的。「有能に見られたい」「流行に乗っていると思われたい」「チームに貢献したい」など。

新規事業においてJTBDが有用なのは、これらの「仕事」が、製品やサービスそのものよりも、顧客の置かれた状況や根本的な欲求に根差しているため、比較的変化しにくいからです。市場や技術が変化しても、顧客が成し遂げたい根本的な「仕事」は残り続ける傾向があります。

新規事業におけるJTBDの価値

新規事業、特にこれまで関わったことのない市場や顧客層を開拓する場合、JTBDは以下のような課題解決に貢献します。

  1. ゼロからの顧客定義の深化: ターゲット顧客を年齢や所属といった属性ではなく、「解決したい特定の『仕事』を抱えている人々」として定義できます。これにより、誰に、どのような価値を提供すべきかがより明確になります。
  2. 新しい市場や顧客層の本質理解: 表層的なニーズではなく、顧客の生活やビジネスにおける根本的な課題や動機を捉えられます。これにより、既存の競合製品やサービスでは満たされていない「未充足の仕事」を発見し、新しい事業機会を見出すことができます。
  3. 不確実性の高い環境での戦略基盤構築: 変化しにくい顧客の「仕事」に焦点を当てることで、外部環境の変化に左右されにくい、より強固な事業コンセプトや価値提案を構築できます。
  4. 有効なフレームワークとしての連携: 価値提案キャンバスやビジネスモデルキャンバスにおける「顧客セグメント」「ジョブ」「ペイン」「ゲイン」といった要素を、JTBDの視点から深く掘り下げ、具体化するための強力なインプットとなります。

JTBDの実践的な活用方法と応用事例

JTBDを新規事業開発で実践するには、まずターゲット候補となる顧客や、関連する経験を持つ人々に対する「JTBDインタビュー」が中心的なアプローチとなります。

基本的なJTBDインタビューの考え方

インタビューでは、抽象的な「ニーズ」を聞くのではなく、特定の状況における顧客の具体的な行動や経験、その時の感情や困難に焦点を当てます。重要なのは、過去に顧客が何かの製品やサービスを「雇用」した、あるいは「解雇」した(使うのをやめた)具体的な「スイッチングイベント」について深く掘り下げることです。

このインタビューを通じて、顧客が直面している具体的な「仕事」は何か、その仕事に関連してどのような「ペイン」(課題や不満)があり、どのような「ゲイン」(達成したいことや得たいもの)があるのかを、彼らの言葉で理解していきます。

新規事業における応用事例(抽象例)

事例1:製造業による保守サービスのリモート化SaaS事業

大手製造業の新規事業企画部が、自社製品ユーザー向けの保守サービスを高度化・リモート化するSaaS事業を検討しているとします。ターゲットは、製品を導入している顧客企業の保守担当者です。

従来の分析では、「保守業務の効率化ニーズ」「コスト削減ニーズ」といった表面的な課題に終始しがちです。しかし、JTBDの視点から、保守担当者の「仕事」を掘り下げます。

これらの「仕事」を理解すると、単に「リモートで診断できるSaaS」を提供するだけでなく、「担当者が『突然の故障』というストレスから解放され、自信を持って対応できるようになるための、予測診断とリモート支援機能を備えたSaaS」というように、より顧客の感情や社会的な側面に訴求する価値提案が見えてきます。また、「定期メンテナンスの記録・報告業務」という機能的な仕事における具体的なペイン(手作業が多く煩雑、報告書作成に時間がかかる)に対して、自動化・標準化機能を提供する、といった具体的なソリューション開発にも繋がります。

事例2:新たな素材を用いた一般消費者向け製品事業

製造業が開発した独自の高機能素材を活用し、これまでにない一般消費者向け製品(例:特定の活動に特化したウェア)で新規事業を立ち上げるケース。ターゲット顧客像が不明確な場合、JTBDが有効です。

従来のマーケティングでは、「高機能素材に関心のある層」「アウトドア趣味の層」といった切り口になります。JTBDでは、その素材や製品が解決する「仕事」を抱えているのは誰かを考えます。

こうした「仕事」の発見は、単に素材の機能性をアピールするのではなく、「雨の日の通勤を快適でストレスフリーにするウェア」や「どんな天候でもパフォーマンスを最大化できるランニングウェア」といった、具体的な顧客の「仕事」に紐づいた製品コンセプトやコミュニケーション戦略の構築に役立ちます。

経営層への説明における活用

不確実性の高い新規事業計画を経営層に説明する際、JTBDフレームワークから得られた洞察は、事業の根拠と将来性を説明するための強力な武器となります。

JTBDフレームワーク活用の注意点・成功のポイント

JTBDフレームワークは強力ですが、その活用にあたってはいくつかの注意点と成功のためのポイントがあります。

  1. 「仕事」の定義の深掘り: 顧客が語る表面的な「欲しいもの」や「不満」にとらわれず、その背後にある真の「仕事」(なぜそれをしたいのか、何がそうさせているのか)を徹底的に深掘りすることが重要です。安易に機能的な仕事だけに限定せず、感情的、社会的な側面も考慮に入れる必要があります。
  2. 状況への着目: JTBDにおける「仕事」は、特定の「状況」(Context)と密接に結びついています。顧客がどの「状況」で、どのような「仕事」を片付けようとしているのかを具体的に理解することが不可欠です。例えば、「移動する」という仕事でも、通勤時の移動と、休日のレジャー目的の移動では、その時の状況や「雇われる」ソリューション(電車、自家用車、タクシーなど)が異なります。
  3. インタビュー技術の重要性: JTBDの洞察を得るためには、顧客の過去の具体的な経験や行動について、偏見なく聞き出すインタビュー技術が非常に重要です。「仮説の検証」ではなく、「顧客の現実の発見」という姿勢で臨む必要があります。
  4. 万能ではない理解: JTBDは顧客理解を深めるための非常に有効なレンズですが、それだけで新規事業の全てが決まるわけではありません。発見した「仕事」に対して、市場規模は十分か、技術的に実現可能か、競合の状況はどうか、自社のリソースで実現できるか、といった他の様々な分析やフレームワーク(市場調査、競合分析、VRIO分析、ビジネスモデルキャンバスなど)と組み合わせて活用する必要があります。
  5. ソリューションへの翻訳: JTBD分析で顧客の「仕事」を特定しただけでは、具体的な製品・サービスには繋がりません。発見された「仕事」や関連するペイン・ゲインを、どのような機能、サービス、ユーザー体験で解決するのかを具体的にデザインし、価値提案として組み立てるプロセスが必要です。

結論:JTBDで新規事業の羅針盤を見つける

新規事業、特に未知の市場や顧客層への挑戦は、常に高い不確実性を伴います。この不確実性の中で、羅針盤となるのが「顧客が本当に何を成し遂げたいのか」という洞察です。ジョブ・トゥ・ビー・ダン(JTBD)フレームワークは、従来の顧客分析手法では見えにくかった、顧客の行動の背後にある根本的な「仕事」を明らかにするための強力なツールです。

JTBDの視点を取り入れ、顧客が製品やサービスを「雇う」真の理由を深く理解することは、ゼロからの顧客定義を深化させ、真に顧客に「雇われる」可能性の高い価値提案を構築し、変化しにくい顧客の「仕事」を基盤とした、不確実性に強い事業戦略を描くことに繋がります。また、この「顧客の仕事」に基づいた説明は、経営層を含む社内外の関係者に対し、新規事業の意義と将来性を論理的かつ説得力を持って伝える上でも非常に有効です。

今日から、目の前の顧客やユーザーが「どんな仕事を片付けたくて、私たちの製品や競合の製品、あるいは全く別の何かを『雇っている』のだろうか?」と問いかけることから始めてみてください。この問いが、あなたの新規事業を成功に導く新たな洞察をもたらすはずです。JTBDフレームワークを実践的に活用し、新規事業の羅針盤を確かなものにしていきましょう。