B2B新規事業の勝算を高める:組織構造・意思決定者分析による深層顧客理解実践ガイド
はじめに:B2B新規事業における顧客理解の壁
大手製造業において新規事業の創出は不可欠な戦略テーマです。新しい市場や顧客層を開拓する際、特にB2B領域では、B2Cと比較して顧客理解の難易度が高いと感じられているのではないでしょうか。個人を対象とするB2Cとは異なり、B2Bにおける顧客は「組織」です。組織には独自の文化、構造、そして複数の意思決定プロセスが存在します。
これまでのビジネス経験を通じて、市場や顧客の動向を理解する重要性は十分に認識されていることでしょう。しかし、新規事業において、ゼロから新しい顧客、特に組織を理解し、その複雑な意思決定構造を紐解くことは、多くの経験豊富な担当者にとっても容易な課題ではありません。従来のペルソナやカスタマージャーニーといった手法だけでは、組織という複雑な実体を捉えきれないケースも少なくありません。
新規事業の成功は、顧客が誰か、彼らが何を求めているか、そしてどのように意思決定を行うかを深く理解できるかに大きく依存します。特に技術シーズを基にした新規事業が多い製造業においては、優れた技術力を持っていても、ターゲットとなる組織顧客の内部構造や意思決定ロジックを理解できず、市場に受け入れられないという状況に陥るリスクがあります。
本記事では、B2B新規事業におけるこの根本的な課題を解決するため、「組織構造・意思決定者分析」、すなわちDMU(Decision Making Unit:意思決定単位)分析に焦点を当てた実践的なアプローチをご紹介します。このフレームワークは、ターゲット顧客となる組織の内部構造、関連部署、そして製品・サービスの導入に関わるキーパーソンを特定し、彼らの役割、影響力、関心事を体系的に理解するための強力なツールとなります。不確実性の高い新規事業環境において、この分析を通じて深層的な顧客理解を得ることは、精度の高い事業計画策定や、経営層への説得力ある説明に不可欠となるでしょう。
本論:DMU(意思決定単位)分析の概要と実践
B2Bの購買プロセスは、B2Cのように一人の消費者が自身の意思で完結するものではありません。多くの場合、複数の部署や役職者が関与し、複雑な合議や調整を経て意思決定が行われます。この購買に関わる組織内の様々な個人の集まりをDMU、またはパーチェシングセンター(Purchasing Center)と呼びます。DMU分析とは、このDMUを構成するメンバーとその役割、相互の関係性、意思決定プロセスを明らかにする分析です。
DMUを構成する役割
DMUは固定的なチームではなく、特定の購買事案に応じて構成メンバーや影響力が変化する動的な概念です。一般的に、DMUを構成するメンバーは以下のような役割(ロール)を担うとされます。
- Initiator (発案者): 製品やサービス導入の必要性を最初に認識し、購買プロセスを開始する人または部署です。現場の課題解決を求める担当者や、経営課題を認識した経営層など様々です。
- Users (使用者): 実際に製品やサービスを利用する人々です。彼らの要求仕様や使い勝手に関する評価は、導入決定に大きな影響を与えます。
- Influencers (影響者): 購買決定に影響を与える人々です。技術部門の専門家、コンサルタント、法務・経理担当者、あるいは現場のリーダーなどが含まれます。彼らは製品の技術的な評価、費用対効果、リスクなどを評価します。
- Buyers (購買担当者): 購買プロセスの実行者です。価格交渉、契約条件の詰め、ベンダー選定の実務などを担当しますが、最終的な決定権を持たない場合が多いです。
- Deciders (決定者): 最終的な購買決定に権限を持つ人です。役員、部門長、プロジェクトリーダーなど、その階層や役割は組織や購買事案によって異なります。
- Gatekeepers (情報管理者): 購買に関連する情報の流れを制御する人々です。秘書、購買部門の受付、特定の技術情報へのアクセスを管理する担当者などが該当します。彼らを通過しないと、キーパーソンに必要な情報が届きません。
新規事業において重要なのは、これらの役割が必ずしも特定の部署や役職に固定されるわけではないことを理解することです。一人が複数の役割を担うこともあれば、一つの役割を複数の人が担うこともあります。
DMU分析の目的と基本的なステップ
DMU分析の主な目的は、ターゲットとなる組織顧客において、自社の新規事業の製品・サービス導入がどのように検討され、誰が最終決定を下すのかを明確にすることです。これにより、効果的なアプローチ対象と、伝えるべきメッセージを特定できるようになります。
基本的な分析ステップは以下のようになります。
- ターゲット組織の選定: まず、どのような特徴を持つ組織をターゲットとするかを明確にします。業種、規模、既存の課題などを定義します。
- 関係者の洗い出し: 選定したターゲット組織において、自社の製品・サービスに関心を持つ可能性のある部署や役職者を可能な限り洗い出します。初期段階では推測や仮説に基づくリストアップで構いません。
- 各関係者の役割・関心事・影響力の特定: 洗い出した関係者それぞれが、上記で述べたDMUのどの役割を担う可能性があるか、彼らはどのような課題を抱え、自社の製品・サービスに何を期待するか、そして購買決定プロセスにおいてどの程度の影響力を持つかを分析します。ここでは、彼らの個人的なキャリア目標や組織内での立場も考慮に入れるとより深い理解が得られます。
- 意思決定プロセスの推測: 製品・サービス導入に至るまでの一般的な組織内の意思決定フロー(例:現場からの要望 → 関連部署での評価 → 費用対効果検討 → 経営会議での承認など)を推測します。どの段階で誰が関与し、どのような情報や承認が必要になるかを仮説として立てます。
- DMUマップ/チャートの作成: これまでの分析結果を視覚的に整理します。組織図をベースに、各関係者の役割、相互のつながり(情報の流れ、影響力)、そして意思決定のフローを書き込んだマップやチャートを作成します。
応用・活用事例:新規事業におけるDMU分析の実践
DMU分析は、新規事業の様々な局面で具体的なアクションに繋がる示唆を提供します。
事例1:製造業向けIoTソリューション新規事業におけるDMU分析
例えば、製造業の工場向けに生産効率向上を目的とした新しいIoTソリューションを提供する新規事業を検討しているとします。ターゲットとなるのは中堅規模の製造工場です。
この場合、DMUは以下のような構成が考えられます。
- Initiator: 製造現場の担当者、または生産管理部門長(現場の課題を感じている)
- Users: 製造ラインの作業員、現場管理者(実際にシステムを操作する)
- Influencers: 情報システム部門(既存システムとの連携、セキュリティ)、製造技術部門(技術的な実現可能性)、経理部門(投資対効果、ランニングコスト)
- Buyers: 購買部門
- Deciders: 工場長、経営層(投資判断、全社戦略との整合性)
- Gatekeepers: 情報システム部門(新規システムの導入情報のフィルタリング)、現場へのアポイントを管理する担当者
DMU分析により、工場長が最終決定者であり、情報システム部門と製造技術部門が強い影響力を持つことが分かったとします。また、現場作業員は「操作の簡単さ」を、生産管理部門長は「リアルタイムでの進捗把握」を、経理部門は「導入費用の回収期間」を重視することが特定できました。
この分析結果は以下のように活用できます。
- ターゲティング・アプローチ: 単に購買部門にアプローチするのではなく、まずInitiatorである生産管理部門長に課題提起の形で接触し、影響力を持つ情報システム部門や製造技術部門には技術的なメリットや既存システムとの互換性を、決定者である工場長や経営層には投資対効果や全社的な生産戦略への貢献度を訴求する資料を準備するなど、関係者ごとに異なるメッセージで多角的にアプローチする戦略を立てられます。
- 価値提案の調整: 現場作業員向けには操作マニュアルを分かりやすく作成したり、経理部門向けには具体的なコスト削減シミュレーションを提示したりするなど、DMUの各メンバーの関心事に合わせて提供価値の訴え方や提示情報を調整できます。
- 経営層への説明: DMU分析の結果を経営層への説明資料に盛り込むことで、「我々のターゲット顧客である〇〇社の購買プロセスはこうなっており、キーパーソンは△△部門の××氏と□□部門の◎◎氏であると特定しています。彼らに対しては、それぞれ異なるニーズを踏まえたアプローチを計画しており、成功確度を高めています」といった具体的な根拠に基づいた説明が可能になります。新規事業の不確実性に対し、市場・顧客理解の深度を示すことは、経営判断を仰ぐ上で極めて有効です。
事例2:新しい化学素材を活用した部品新規事業におけるDMU分析
既存の部品に代わる新しい機能性を持つ化学素材を開発し、自動車メーカーに部品として供給する新規事業を想定します。
この場合のDMUはさらに複雑になる可能性があります。
- Initiator: 車両開発部門の特定の部品担当者、研究開発部門
- Users: 部品の製造工程に関わる部門、車両組立部門
- Influencers: 材料技術部門(素材の評価)、設計部門(部品設計への適合性)、品質保証部門(信頼性、安全性)、コスト企画部門(部品コスト)、環境・法規部門(規制対応)
- Buyers: 購買部門
- Deciders: プロジェクトリーダー、部門長、役員(新素材・新技術の採用は経営判断となる場合が多い)
- Gatekeepers: 研究開発部門への問い合わせ窓口、各部門間の情報のハブとなる担当者
特に自動車産業のようなサプライヤーヒエラルキーが存在する業界では、 Tier 1 サプライヤーを経由する場合も多く、そのTier 1のDMUも分析対象に含める必要があります。
このような複雑なDMU構造を分析することで、例えば、技術的な評価は材料技術部門が握っているが、最終的な採用可否はコスト企画部門と品質保証部門、そして経営層の判断が大きいことが分かります。
この知見を活かして、材料技術部門には詳細な物性データと技術的な優位性を、コスト企画部門には既存素材と比較した長期的なコストメリット(軽量化による燃費改善なども含めて)、品質保証部門には信頼性試験データや過去の実績を、そして経営層には新素材採用による競合優位性や将来的な事業ポートフォリオへの貢献を訴求するなど、戦略的なコミュニケーションが可能になります。また、誰がどの情報にアクセスできるか(Gatekeeper)を理解することで、情報伝達のボトルネックを回避することも重要です。
注意点・成功のポイント
DMU分析は強力なツールですが、いくつかの注意点と成功のためのポイントがあります。
- 情報は常に仮説: 組織の内部構造や力関係に関する情報は、公開されていない場合が多く、初期段階では推測に頼らざるを得ません。重要なのは、この仮説を「正しい情報」として固定せず、ターゲット組織との対話(商談、ヒアリング、展示会での交流など)を通じて、継続的に検証し、更新していくことです。
- 動的な変化への対応: 組織構造、担当者の異動、事業方針の変更など、DMUは常に変化する可能性があります。一度分析して終わりではなく、定期的に見直しを行う必要があります。
- 分析自体が目的ではない: DMU分析はあくまで顧客理解を深めるための手段です。分析結果は、具体的なアクション(誰に、何を、いつ、どのように伝えるか)に繋がらなければ意味がありません。分析結果から得られた示唆を、ターゲティング戦略、コミュニケーション戦略、営業戦略、製品開発計画などに落とし込むことが重要です。
- 他のツールとの組み合わせ: DMU分析は単独で行うよりも、他の戦略立案ツールと組み合わせて活用することで、その効果を最大化できます。例えば、価値提案キャンバスで考える「顧客のジョブ」「ペイン」「ゲイン」を、DMUの各役割ごとに具体化したり、ビジネスモデルキャンバスの「顧客セグメント」や「チャネル」を定義する際にDMU分析の結果を反映させたりすることが有効です。
- 「なぜ」を掘り下げる: 各関係者の役割だけでなく、「なぜ彼らがその役割を担うのか」「なぜ彼らは特定の情報に関心を持つのか」「彼らにとっての成功/失敗とは何か」といった深層的な動機や目標を理解しようと努めることが、真の深層顧客理解に繋がります。
不確実性の高い新規事業環境では、全ての情報が揃うことは稀です。DMU分析も完璧な答えを出すツールではなく、不確実性の中で最も確度の高い仮説を構築し、検証していくためのフレームワークとして捉えることが重要です。
結論:DMU分析でB2B新規事業の羅針盤を得る
B2B新規事業において、表面的な顧客像だけでなく、その背後にある組織構造と複雑な意思決定プロセスを理解することは、事業成功の生命線と言えます。DMU分析は、ターゲット組織の内部に存在する多様なステークホルダー、彼らの役割と影響力、そして購買に至るまでの道筋を体系的に紐解くための実践的なフレームワークです。
この分析を通じて得られる深層的な顧客理解は、以下のような面で新規事業の勝算を飛躍的に高めるでしょう。
- 精度の高いターゲティングとアプローチ: 誰がキーパーソンであり、誰にまず接触すべきか、誰を巻き込む必要があるかが明確になります。
- パーソナライズされた価値提案: DMUの各メンバーのニーズや関心事に合致した、より響くメッセージと価値提案が可能になります。
- 効果的なリソース配分: 限られた時間とリソースを、意思決定に大きな影響力を持つ関係者へのアプローチに集中できます。
- 迅速な意思決定プロセスの促進: 意思決定のボトルネックとなる可能性のある要素や人物を特定し、事前に対策を講じることが可能になります。
- 経営層への説得力向上: 「誰に」「なぜ」アプローチしているのか、そしてそのアプローチが顧客組織の複雑な意思決定プロセスにどう対応しているのかを論理的に説明でき、新規事業計画の実現可能性を示す強力な根拠となります。
貴社の新規事業においても、まずは特定のターゲット候補企業を一つ選び、仮説に基づいたDMU分析を試みてはいかがでしょうか。現場担当者へのヒアリング、公開情報の収集、既存の顧客との関係者への相談などを通じて、仮説の精度を高めていってください。この一歩が、不確実な新規事業の航海において、確かな羅針盤となるはずです。
DMU分析で得られた知見を基に、具体的な営業戦略やマーケティング戦略を策定し、社内外の関係者を巻き込みながら新規事業を成功に導いてください。